観る
楽しみにしていた『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』を観てきた。約1ヶ月振りの映画館。去年の上半期は狂ったように行ってきた映画館も、ここ半年は足が遠のいている。
しかしいざ観てみると湧き上がる何かがあるものだ。映画館よりももっと頻度が落ちていたブログにこうして手をつけてみようと思えたのだから。
ここ半年、映画ではなくアニメをよく見ていた。いや、ハサウェイもアニメではあるのだが。24分ぐらいで気楽に腹を満たせるアニメというコンテンツは素晴らしく、「もうこれだけで良いじゃん」と思わせる力が確かにある。
だが時にはそこから出る必要があるようだ。インプットが大事であることは言うまでもないが、その中でも映画は俺にとって取り分け特別なものらしい。
どうも腰が重くて、当分は映画三昧の日々に戻れそうもないが、少なくとも月に1度は映画館に行こうと思った。
ということで、遅ればせながら明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。
俺はワッパーJr.ぐらいが丁度良い
1ヶ月半振りか。なんとか生きていたので更新する。
というのも最近肺炎になってしまい、約2週間入院していた。ショックだった。今まで病気とは無縁の人生だった為、遂にこんな日が来てしまったのかと。入院する際命に関わるようなレベルではないですと言われたものの、高熱で苦しむ入院3日目ぐらいに、担当の先生から「うーん、そろそろ熱が下がっても良い頃なんですが、中々下がらないのが心配ですねえ」と不穏なことを言われまさか「終わり」が近いのかと少しだけ心配になった。高熱、頭痛、息苦しさによって殆ど眠れず、食欲も全く無いという地獄のような日々。スマホで動画を見るのもしんどい程であったが、少し症状がマシになる朝~昼に辛うじてドジャースのワールドシリーズを見るぐらいは出来た。それ以外はただただ横になっている他無いので、最悪の展開を迎えた際に関わりの深い人たちに対してどんな別れの言葉を伝えるか考えてみたりもした。流石に大丈夫だろうとは思っていたが。
3日目か4日目に41度の熱が出た。人間、41度でも呼吸は出来るものらしい。そこが峠で翌日か翌々日から熱は下がり始めた。やがて食欲も戻ってきて、無事退院を迎えることが出来た。最後の方は体調的にはもう何ともなかったものの、単純に退屈過ぎてそれはそれで苦痛だった。12日振りに病院の外に出て、歩き出した時筋肉のバランスが滅茶苦茶になっているのを感じて気持ちが悪かった。久々の外の空気は思ったよりも美味しく感じなかった。
死ぬまで行かなくとも、もう二度と元の身体には戻れないんじゃないかと不安に思っていたが、ボイトレでリンダリンダを熱唱出来るぐらいにはすっかり元気になった。やっぱり健康が1番だ。
元々今年は体調を崩しがちで、グッと気温が上がったり下がったりすると熱が出るか風邪をひくかを繰り返していた。健康体であることが取り柄であったが、ここのところはそうも言えなくなってきている。もう炎天下のサマソニで朝VOLBEATを観てからトリのMETALLICAまでカルピスウォーターボトルアイス1つでやり過ごせていたあの頃の俺はいない。
それで思い出したが、先日ベルーナドームで行われたトラヴィス・スコットのライブにYeがサプライズ出演したという奇跡みたいな出来事、観に行った人たちが羨ましすぎる。2年前の俺ならトラヴィスも聴いていたから絶対行っていたのに。畜生。
いやそんな話はええねん。とにかく皆さん己の身体は大事にしましょうって話でした。というか大事にしてても死ぬ時は死ぬから、1日1日大切に生きようって話だな。
綴る!
生きてます。まだ大丈夫。
今日は日記の話をしよう。高校生の頃、スマホに日記を書き始めた。それが何年も継続した。しかしいつからか、俺は書かなくなってしまった。
日記を書く、それは俺の人生にとって必要なことだった。ラッパーが日々の鬱憤や社会への不満をリリックにしたためる様に、俺は己の全てを日記という形にして残した。そしてそれを見返すのが好きだった。その時の感情や温度がそこにはあった。時が経って考えが変わったとしても、あの日の自分を忘れたくなかった。
最後に日記を書いていたのは恐らく2023年。俺が仕事を辞めた年だ。毎日絶望の朝を迎えていたあの頃、俺には日記だけが唯一のオアシスだった。文字と化した苦しみや怒りで画面上を埋め尽くした。高校生の頃から何も変わらない。思ったことを書く。変わらないはずだった。だが変わってしまった。俺は感情を文章化することを躊躇し始めた。胸の内をありのまま曝け出すことが出来なくなってしまった。日記を見返した時、その時の感情が蘇ってくることに恐怖を感じたのだ。
あの時気付いた。そうか、日記を書くという行為は自分と向き合うことであると同時に、現実と向き合うことでもあったのかと。
あの頃から俺はずっと逃げ続けているような気がする。もう一度、この世界で戦っていくには、やはり日記が必要だ。ブログなんて書いてる場合じゃねえな。
諦念
誰しも「言われて嫌な言葉」が1つはあるものだ。服がダサい、地味、つまらない、陰キャ、薄情者、声優ラジオ聴いてそう、貴方はどの言葉が1番効くだろうか。ああ、薄情者ってのは実際俺も言われたことがあるのだがその話はまたいずれ。俺が言われる度に心を蝕まれる言葉、それは「気が利かない」だ。それをよく言われていたのは2019年、俺が新潟の営業所で働いていた頃だった。
ある日上司に誘われて4人で会社の飲み会に行った。そこで何を話したかは全く覚えちゃいない。そりゃそうだ。面白いことなんて何も無かったのだから。まあそこまでは良い。問題はこの後だ。部長が店に忘れ物をしたと言う。「なーにやってんすかー」的な空気だったので俺も取り敢えず笑っておいた。こりゃ参ったな、という表情の部長が取りに戻ろうとすると、上司が俺の方を見て「そこは僕取りに行きますとか言わんもんかね」とポツリ。そしてその隣にいた別の先輩社員があの言葉を突き刺してきた。気が利かないねえ、と。「あ、すみません。僕行ってきます。」とダッシュで取りに向かう俺であった。心の中では「なんでこんなことしなきゃいけねえんだよ!」と叫んでいたが。いやもう声に出ていたなあれは。部長は営業所の奥でふんぞり返っているだけの老害だと思っていたから余計に。
なおこの話はほんの一件に過ぎない。当時働いていた会社はグループ企業であったが故に、懇親会やら納涼会やら訳のわからないジジイ共の中にしばしば放り込まれたものだ。その度にチクチクと例の言葉を言われて頭がおかしくなりそうになった。そもそも何故他人の酒なんて注がなきゃならんのか。自分でやってくれ。
と、文句を垂れていても仕方が無いのでこれからの話もしよう。はっきり言って俺はもう諦めている。俺には他の人間のように器用に立ち振る舞うことなんて出来ないからだ。それはもうわかっていること。俺は視野が狭くて地頭も悪いんだ。これは自分を卑下している訳ではなくて事実そうなのだ。そんな人間に多くを求めないでくれ。例えばここに1000枚の紙があって、その1つ1つにとあるシールを貼り、更にこれを一定の形にハサミで切り取るという作業をしなければならないとする。普通に考えれば、まず全てにシールを貼ってから何枚か紙を重ねて纏めて切るとか、何らかの工夫を凝らしてこの作業に取り組むのだろう。だが俺はまず1枚シールを貼ってそれをハサミで切る、これを1000回やってしまうような男なのだ。非常にわかり辛い例になってしまった気はするが、とにかく俺は意図せず効率化の真逆を行ってしまうことが少なくない人間だということを伝えたかった。
それでも俺は前向きに生きたい。前向きに諦めよう。部長の忘れ物を取りに行けなくても、他人の酒を注げなくても、それを補って余りある武器が俺にはあるのだから。これで良いんだ。28年と9ヶ月生きてきてようやくそのことに気付き始めている。この勝ち方でどこまで行けるか、旅はまだ終わらない。
ただいま
久しぶりの更新になってしまった。安心してくれ。ちゃんと生きてる。俺は元々消えるのが好きな男なんだ。大学1年生の春、1週間丸々講義をサボり、当時つるんでいた友人のようなそうでもない人々との連絡も絶ち、色々な街をフラフラしていたことがあった。どうしてか、時々そんな気分になる。
デジタル時代に青春を謳歌してきた俺の世代にとって、大抵の場合「孤独」は縁遠い言葉だ。孤独を感じることはあっても、真の孤独に辿り着く人間はそういないだろう。しかし時に全てを捨て去りたいと感じるのは、無い物ねだりというやつか。いざ独りになった途端、また誰かとの交流を望み出すのだから実に贅沢な話だ。己が恵まれている証左と言えよう。
敢えてもう一度、俺はちゃんと生きてる。この更新を最後に5年間姿を消したとしても、きっと生きている。真の孤独、半歩でもそこに近付けたら新しい何かを見つけられるだろうか。
以上、「孤独」というテーマで本気出して書いてみようとした結果、思ったよりアイディアが浮かんでこなかったので、遺書のような言葉で無理矢理締め括った記事でした。ブログなんてこんなもん。
サボテン
小5、6年の時の俺は超が付くほどの泣き虫だった。担任のT先生との相性がとにかく悪かった。この先生は厳しいことで有名で、自分のクラスの担任であることを知った際にもう嫌な予感はしていた。そして我が母校は2年毎にクラス替えするシステムとなっており、学級崩壊でもしない限りはこの先生と卒業までの日々を共にすることは確定していた。厳しい先生が故、残念ながら学級崩壊を起こすことは全く無く、我々1組は規律が植え付けられた模範的クラスとなった。新任の先生が担任であった3組、4組が学級崩壊し、ベテランと思しき先生に担任が交代していくのを見て正直羨ましく思った。崩壊するだけはあって、それらのクラスではいじめもあったらしいので、今思えば余裕で当たりの組だったのだが。
2年間T先生に怒られまくり、その度に泣いていた。途中からは呼び出された時点でもう泣いていたぐらい。「すみません、先生の顔を見たら涙が出てきてしまって・・・」と本来であれば感動的な場面に使いそうなセリフを吐いたこともあったか。
特に苦しかったのが6年時の運動会の練習で、俺は恐ろしい程に組体操の才能が無かった。中でもサボテンという技は最悪だった。ペアになり、肩車の状態からタイタニックのポーズに移行していくという、1歩間違えれば四十八手のいずれかに該当しそうなこの技に関して、段違いのセンスを持つ俺の成功率は、本番2日前まで驚異の0%であった。
練習後、いつものように大粒の涙を流しながら1人体育館から教室へ戻ろうとしていた俺に、そこに通りすがったM先生が声を掛けてきた。M先生は別の学年の担任教師であったが、当時授業の1つでクラブ活動というものが存在しており、俺が所属していたチャンバラクラブの担当だったので面識があったのだ。「どうした?大丈夫か?」と心配そうな表情のM先生に対し、涙を拭いながら「大丈夫です」と答えた。こんな情けない姿を見られたくないと思い、歩くスピードを早めた。そして後悔した、やっぱり慰めてもらえば良かったなと。M先生にとってはちょっと気にかけてみた程度のことだっただろうが、俺は17年経った今でもその恩を忘れていない。人には優しくしておくもんだな。
さて、本番の結果次第ではトラウマになり得た組体操、サボテン含め全て成功したことで一応は「良い思い出」として胸の中に収納されることとなった。今振り返ると、T先生は俺に特別当たりが強かったという訳ではなかったと思う。恐らく俺が勝手に圧を感じていただけなのだろう。厳しいとは言っても、昭和の殴ったり蹴ったりという暴力教師では全く無くて、怒る時はガッツリ怒るというだけの普通の人だった。まあ怒る頻度も他の教師に比べれば多かったか。それでも少なからずあの人の存在がクラスに平和をもたらしていたと考えると、俺は寧ろ感謝しなければならないのかもしれない。あの頃ガッツリいじめられていたならば、流石に潰れていただろうから。
まあ、もし俺がT先生との不和が原因で不登校になっていたらその理論も通用しないんですけどね。だから実はこれは俺偉いねって話。
聞け
ガキの頃から友達が少なかった。幼稚園の頃からそうだった。近所に住んでいた数人とは仲が良かったものの、彼らとも別の組だったから園での俺は孤立していたような気がする。休み時間には1人でブロックを組み立てていた。そうして1人でいることを他の男の子にいびられることもあった。その時は女の子が助けてくれた。嬉しかったけど、彼女たちもまた友達とは思えなかった。ここで壁を作ってしまうのが良くないのだろう。
人との距離感を掴むのを当時から苦手としていたんじゃないかと思う。これは今でも変わらない。俺は人と仲良くなる方法がわからない。己の心のドアの開け方がわからないんだ。
小学1年生で親友が出来た。「親友」という言葉もその時に知った。小学2年生も彼と同じクラスで俺は歓喜した。その年の俺と彼は所謂仲良しグループ的な何かに属していた。そこにはガキ大将的な奴もいた。ある日の放課後、そいつらに靴を水浸しにされて、裸足で家に帰った。親友だと思っていた彼もそれに加担した。何よりもその事実が悲しかった。母親に泣き付いたら、数日後そいつらが家に謝りに来て丸く収まった。俺の引越しが決まるとそいつらがお別れ会を開いてくれた。笑顔でさよならした。小2のガキなんてそんなもん。
東京に越してきた小学3〜6年、知り合いが誰もいないこの地で自分が「人見知り」であることを理解した。友達なんて出来る訳がなかったが、奇跡的に少しだけ出来た。でも長くは続かず、やがて彼らも俺を見下す側に転じた。些細なことの積み重ねだったが、彼らが離れていくのは妥当であるように当時の俺は感じていた。すぐ調子に乗って距離感を間違える俺が悪いんだと。
中学生になった俺。早速洗礼を受けた。同学年のイキった連中に標的にされて、家庭科室など教室移動の際にそれを妨害された。幸い殴られたりはしなかったので良かった。こんなところで出鼻をくじかれたくない俺は「これはコミュニケーションの一環だ」と自分に言い聞かせた。勿論いじめであることはわかっていたとも。その後本当に友達が出来た。今でも仲が良い大事な友達。中学3年間は良い思い出だ。
が、高校でもやられた。高1の春、机の上に置いていたはずの筆箱が頻繁に失くなった。気持ちを落ち着かせる為に1度トイレに行って戻ってくると、何故か筆箱も戻ってきていた。筆箱もトイレに行っていた可能性はあるが恐らく違う。犯人の目星は大体ついていた。そいつらは俺にピンポン玉を投げて、避ける俺を見て笑っていたから。飽きたのか何なのか知らないが、2学期以降はそういったことはパタリと無くなった。俺自身段々とクラスに受け入れられ始め、犯人の連中と話すこともあった。なんでこいつらは謝らないんだろう、と思うことなんて全く無かった。そもそも俺が悪いんだと思ってた。こんなことを平然と書けるぐらいには高校生活も楽しんだ。本当の友達もちゃんと出来たし問題無い。
友達を作るのが下手なばかりに、こんなにも拗らせる要因が生まれるものなのか。それとも拗らせているから下手なのか。でも良かった。俺がオタクにピンポン玉投げて笑ってるような小物じゃなくて本当に良かった。そしてそんな小物と友達じゃなくてマジで良かった。
俺、友達作るの下手で得したわ。